私の場合
振り返ると私は学生時代から仕事をして来た。
アルバイトを始めたきっかけは、同級生に誘われてだった。
そのフルーツパーラーのウェイトレスのエプロンが可愛かったのと
何となく興味があったから。今で言うコスプレのハシリ?
次は画材屋さん。美大受験に失敗し未だまだ未練があった。
浪人して目指したかったが親の反対で別の選択へ、良いも悪いも無かったが、
女子大生に囲まれ失望した。かく言う私も女子大生だった。
ある時、親にお小遣いを貰いつつ暮らしていては私の未来は無い。
経済的自立が自分の自由も確立すると思い立ち、職を探し「就職します」と宣言。
これで親との泥仕合いの様なお見合い合戦が一時停戦。既に26歳になっていた。
でも兎に角、ヨカッタ・・・親との関係も自分で描いた未来も何もかもが膠着状態
だったが、そこから脱することが出来た。その後、数年は身の程知らずを十分に
思い知らされ、しかし親に宣言した手前引き返すことは出来ず、必死に夢中に模索した。
何とか溺れずにやっと辿り着いた30代。これで親の結婚追及から逃れる事がやっと出来た
と安堵した一方、漠然とした不安と期待で圧倒された。
母にとって私は行き遅れの“烙印”が押された娘、親不孝な娘、だった。
社会に出て自分の労力で自立する事を目指した私の選択は、母と対立しその後も何かと
揉め事の発端となった。 私が目指した未来とは何だったのか・・・
心から愛せる人に出会い、認められ、一緒に歩む事だったと思う。他人の価値観ではなく、
私が選んだ道を歩みたい。特別な、風変わりな、非常識な、願いだったのだろうか。
母は最後まで徹底して私を拒絶した。裏切った娘、思う通りにならない娘、素直さのない娘、
自己主張する生意気な娘、信用ならない娘、不要になった娘。
でも私は実は必死に真面目に生きていた。私こそ、本当の幸せをこの手で掴む為に。
母は私が幼かった頃、何かのきっかけで私を叱る時、決まって口にしたのは
「このイネ! イネ婆‼︎ ヰネ婆っぱアーー❗️❗️」だった。
私が生まれた時には既に他界していた祖母の名で私を呼んだ。母にとっては義母の
憎い憎いイネ婆っぱとして。泣くと尚更声は高くなり、部屋の片隅にしか居られなかった。
叩くこともあり、すりこぎ棒を振り上げて叩いた。竹の物差しを使ってたたいた。
散々叩いておいて正気に戻ると私をじっと見て「ああいう時は逃げるのよ、逃げないと
死んでしまうわよ、分かった?」と教えた。母の大きな瞳はじっと私を見つめていた。
わたしを試すように、私の心を覗き込むように。逃げられるはずなかった。混乱と困惑の中
で思考は停止し恐怖で動けなかった。「なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ?」
しかしその言葉を聞くとママは私の事を本当は愛していて、本当は心配してくれていたんだ、
とホッとし、優しくしてあげようと思った。
不幸なママ、私達の為に自由を奪われ離婚する事も出来ないママ、愛の無い生活に耐えている
ママ。それも私達がいたから。私達の為に自分を犠牲にしている母を心配し、優しくしなければ
ならないと思った。
小学校3年生の或る日、私は実家に帰りたいと泣いている母に、大丈夫、一緒に帰えりましょう。
と言って母の荷造りを手伝いスーツケースを玄関まで運んだ。今日限りでさよならも言わず、友達とも別れ母の実家で暮らす。父の事は考えなかった。転校して田舎の学校に行く。田舎の言葉も覚えよう。頭の中はグルグルといろんな事が駆け巡り忙しかった。気付くと母は既に着替えて玄関に立っていた。慌てて私も玄関に向かうと母は言った。
「あなたは此処に残ってパパの面倒をみなさい。私はふたりを連れて帰ります。」二人とは兄と弟の事だった。玄関で固まってしまった私の前で兄は言った。「僕は絶対に行かない。」
次の日の朝、学校に行ったが家に帰る頃には母は私ひとりを置いて居なくなっているかもしれない
と教室の窓からみえる空を眺めてぼんやりしていた。
私は、私こそはいつの日か本当の幸せを見付けたい、と思う様になった。
私は愛のある幸せな家庭が欲しいと心から願う様になった。
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